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祖父のこと

 私の祖父は第二次世界大戦の終戦近い頃に戦死しました。しかし、祖母が亡くなるまで祖父のことは詳しく知る事ができませんでした。最近になり、親戚からいろいろと教えてもらうことができました。

 聞いた話を紡いでいくと、祖父は久留米から第56師団として出兵したと思われます。昭和20年4月3日にビルマで戦死したそうです。遺骨は帰ってこなかったそうです。骨壺に石ころが入っていたそうです。それが墓に入っているそうです。

 当時のことを調べるとビルマの戦いは過酷だったようです。祖父の死因は記載されていませんが、ビルマには白骨街道と言われる状況もあったと聞くと、祖父も餓死だったのかな、と想像します。

追記(2025年9月)

祖父が死んだ状況を知りたくて、祖父の戦歴を取り寄せました。その書類によると、祖父は餓死ではなく作戦中の衛生隊として患者を担架で運んでいるときに地雷を踏んで上半身喪失により亡くなったようでした。この文字から、即死と推測できました。

「緬甸國ミッタ縣タンドウ村東方ニ科ニ於テ患者後送中敵布設地雷ニ依リ「布設地雷爆創(上半身喪失)」ヲ受ケ戦死ス」

第56兵隊に加わった時は無事に帰還し召集解除になったようでしたが、昭和19年度に臨時召集で第18師団衛生隊の担架第二中隊に編入し、断作戦の途中に爆死したようです。

 祖父が戦死したのは29歳でした。20歳の妻と2歳半の娘を置いて遠いビルマで戦死しました。その娘が私の母です。「戦死」という言葉は何だか勇敢なイメージがありますが現代に置き換えると例えば、29歳の男性が若い妻や子を置いて戦争に行き、無残に死ぬということでしょう。祖父の場合は爆死なので考える暇もなかったと思いますが、残された祖母は、幼子はどんな思いで過ごしたのでしょうか?

 私の母は実父の死について考えたく無いと言っていましたが、私は知りたかった。知ったら気持ちに区切りがつくと思っていたのでしたが爆死は強烈な情報で、まだしばらく気持ちの整理はつきそうに無いです。もしかしたら認知症か何かで忘れるまで覚えている、ということだと思います。

戦争で亡くなった多くの人々にもそれぞれに悲しみがあると思います。その悲しみは消えないですし、消してはならないと私は思っています。

私は、忘れないために「桜花」を描きました。絵に使った「桜花」は特攻兵器ですが、空で亡くなった命も、歩兵や砲兵も被弾した多くの一般人の命も、この絵の中に鎮魂の思いを込めました。今後、二度と、命を矢にすることが無いように、祈っています。

梅川紀美子
2016年1月6日

2025年9月18日(追記)

※「桜花-OHKA-」絵は2013年3月に制作しました

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